トゥールーズ・レヴィナス『困難な自由』コロック報告(1-2)(小手川正二郎)

7月3日
 深夜トゥールーズに到着。空港からは市内行きのバスに乗車し、トゥールーズの中心キャピトル付近で下車。手配してもらっていた大学寮(Cité universitaire chapou)の地図が誤っていたため、メトロでトゥールーズ大学(ミレイユ)に行ったり、再びキャピトルに戻らされたり散々なことに。最終的にはキャピトル付近でベトナム人と中国人の学生をつかまえ、彼女たちに助けてもらい何とか2時過ぎに到着。こういうときアジア人の関係は大事だとつくづく感じます。
 
7月4日
 テアトル・ガロンヌという劇場にてコロック初日。
 トゥールーズはパリとほとんど同じ自転車システムがある。クレジットカードを持っていれば手順に従って、一日(1ユーロ)、一週間(5ユーロ)から借りられる。システムはパリと同じで30分ごとに返却→乗り換えを繰り返せばどれだけのっても規定料金以外取られない。パリよりも車両が少なく町自体も狭いので、一週間で借りてコロック期間中は、自転車を活用した。トゥールーズに行かれる方にはお勧め。
 
 初日のコロックは、レヴィナスの映像、『困難な自由』再版を記念したJosy Eisenbergによるインタヴューから始まる。レヴィナスがインタヴュアーの乱暴な質問に戸惑いながらもできるだけ丁寧に答えようとするもの。合理主義と非合理主義という対立をレヴィナスが単純化であるとし、自分は聖なるもの(le sacré)や匿名の力(puissance anonyme)を批判する一方で、他に何も残そうとしない合理性(rationalité qui ne veut laisser rien d’autre)も拒否すると語っていたのが印象的であった。最後に、「真理以外に何か存在するのか」という問いに対しては、戸惑いながらその質問を肯定しても否定しても誤解が起こる可能性があるので答えられない、代わりに「真摯さ」、語りの一性質ではないような「真摯さ」について語りますと言って終わる。
 
 講演は、Jan Sokol(チェコ)とMartin Matustik(アメリカ)から始まる。
Jan Sokol, L’éthique de l’héritier
 レヴィナスの思想をいくつかの側面(段階)にわけて実践哲学として見るというものであった。実践哲学としてレヴィナスの思想を見るなら、一方で(不誠実さなどに関する)懐疑論をどうやって乗り越え、カントの道徳判断やニーチェのモラルとの対比が問題となる。Sokol氏は、レヴィナスにおける「経験」概念の拡張やハイデガーの影響下での現象学の限界の乗り越えを語るなかで、レヴィナスの立場が普遍性を基礎づけるものであると考えようとしていた。
〔寸評〕
 実践哲学との対比からレヴィナスの思想を評価するという発想それ自体は興味深いものの個々の議論がどのようにその発想に寄与しているのか判明ではなかった。しかも「経験」概念の拡張や現象学の乗り越えといった、非常に多くの問題を抱えるテーマがさらりと語られてしまっていたので疑問を覚えた。確かにレヴィナスも「普遍性」を基礎づける「倫理」といった主題を語るが、問題はこうした普遍性がいかなるものであり、いかなる妥当性と展開可能性を有するのか、この発想が実践哲学としていかなる価値をもつのかという点にあるように思われる。
 
Martin Matustik, The Difficulty of Un/Forgiving
 赦し(forgiveness)の可能性と不可能性について、レヴィナスから離れて赦しの宛先、罰の宛先、赦しの可能性(およびトラウマ)の伝達、人道に対する罪(crimes against humanity)が誰に対する罪なのかを考えるものであった。「人道的に赦しえない」(humanly unforgivable)と「原理的に赦しえない」(unforgivable in principle)という区別を導入しつつ、赦しを「赦しえない者を赦すこと」として考えていく。赦しえない行為とは、怪物(理性を失った者)によってなされるのではなく、罰の対象となりうる人によってなされるということ、トラウマの歴史的な伝達の可能性と赦しの(不)可能性がポルポト派の虐殺を題材に語られた。
〔寸評〕
 赦しというテーマを具体的に考察した点では大いに刺激的であった。題材がポルポト派の虐殺だったために若干重苦しく、また政治的色合いが強くなってしまった感もあったが、赦しと不可能性とトラウマの歴史的な伝達の可能性に関する問題提起は参加者には受けていた。
 私は、赦しの概念が赦す者と赦される者とでは必ずしも一致しないのではないかということを質問したかったが、質問時間がなかったため、そしてこの発表者が大会開催中あまり姿を見せなかったため(…)質問できなかった。レヴィナスは、『困難な自由』のなかで、神でさえも人が他人にした行為を取り消すことはできないことを強調している。この立場からすると彼は基本的に「赦し」の全面的な不可能性を主張しているようにも思われる。この点については「自我と全体性」における「赦し」の考察とあわせて吟味されるべきであろう。Matustik氏は、殺された者が殺した者を赦すことは原理的に不可能といったことから始めて、死者による赦しの可能性、トラウマの伝達可能性などを考察していたが、これは少なくとも『困難な自由』に限ってみるとレヴィナスの問題系にはあまり当てはまらないように思われる(「旗なき名誉」という論考にはこの問題系を読み取ることもできる。村上先生の御指摘ではレヴィナスのアグノン論がこのテーマを扱っており、村上先生のご論文があるとのこと)。問題は、次の点にあるように思われる。仮に私が被害者であるとして、私が加害者を赦すことはできる。しかし、このとき加害者に与えられる赦しは、加害者が受け取る赦しとは必ずしも一致しない。多くの場合、両者は一致しているようにも見えるが、前者は単に後者の一つの要素でしかないと考えうる。死者による赦しの不可能性→死者の赦しの伝達可能性という問題の運びは、この点において必ずしも自明ではないように思われる。
 
Georges Hansel, Singularité d’Israël et universalité morale - Commentaire talmudique
Jacques Assernaf, Une présence lumineuse
Ariel Wizman, Génération Levinas
 レヴィナスの娘婿Hansel氏の発表については、私より適役の方がまとめてくださることを期待。あと二人は、レヴィナスの教え子二人による思い出話。若干冗長かつあまりいい思い出話が聞けなかったのは残念であった。
 
22時を回った頃、イスラエル師範学校の卒業生によるレヴィナス80歳御祝いの会でのレヴィナスの映像が最後に流される。ここまでの話を耐えてきた人たちに対する御褒美であった。食事前に挨拶を求められたレヴィナスが師範学校のことや「感謝」について夕飯そっちのけで情熱的かつユーモラスに語りまくるというもので感動的だった。「6 bis Michel Ange(師範学校があった場所らしい、59rue d’Auteilにその後移転した?この点、詳細を御存じの方は訂正願います)にユダヤ人たちの文明化(civilisation)への入り口が存在した」と熱く語り出す。そうした場が、環境(ambiance)としてではなく、(1)ある典礼的な文脈(contexte riturgique)において、(2)テクストの研究を通じて生じていたことをレヴィナスは強調する。そうした意味でその場所は、語りのうちで生じたもの、行為である(acte, ce qui se passe dans le monde)。長々と感謝の言葉を述べた後、あなた達もご飯を食べたいだろうから最後に一つだけタルムードの注釈をしますと言って、さらに語り続ける。あるラビがある箇所(聞き逃す…申し訳ない)を注釈して次のように述べた。「神は感謝を与えられた」と。食べ物でも優しさでもなく、「感謝を与えられた」(donner la grâce)と。レヴィナスは、この表現がどれほど素晴らしいかを語る。次のラビは、「感謝に対する感謝を与えられた」、「三つの感謝に対する感謝を与えられた」と表現を増幅させていく。この後、ラビによる表現増幅が続く(Malheuresement, c’est pas finiとラビの解釈が続くことをユーモラスに語っていたのが印象的だった)。最後に、(私の聞き間違えでなければ)聴衆に向かってレヴィナスは次のように語って感動的に話し終える。"Je me rend la grâce pour trois grâces."
 
7月5日
 午前は、Ethique et Esprit (1) の英語セッションに出る。英米圏の発表は、レヴィナス読解については多少の難はあるものの、問題意識がはっきりしているため刺激的であった。

Christopher Cohoon, Wild Vegetation: The Natural Underside of Levinas‘ Human Ethics
 レヴィナスの境域(élément)概念と他性についての発表。レヴィナスの倫理を「自然に抗する倫理」(ethics against nature)としたうえでレヴィナスの自然概念をデリダによる動物性の問いなどを引き継ぎつつ批判する。レヴィナスにおいては、自然、境域(魚にとっての水)などが享受の対象とみなされているが、そこに根源的他性を探る可能性があり、人間主義に閉ざされたレヴィナスの倫理を動物、自然への倫理へと開いていくことを提起する。
〔寸評〕
 レヴィナスの人間主義については私もつねに考えてきたので、刺激的な内容であった。しかしこうしたレヴィナス読解に関しては、私は根本的に批判的であるので、質問させて頂いた。レヴィナスにおいて問題となっているのは、人間と動物の区別や人間の特権化ではなく、(1)倫理的に存在者が現れる仕方と(2)所有されたり、享受される対象として現れる仕方の区別であるという点。レヴィナスが(1)の仕方を「人間」、「顔」と呼ぶことで別の次元で人間主義を標榜しているということは言えるが、レヴィナスはこのことにも自覚的だったと思われる。境域や物が倫理的な仕方で現れることをレヴィナス自身も芸術の問いとして問題化しているが、彼はこうした倫理概念の拡大に伴う危険性(「仕方」の区別を消去することですべてが倫理として語られ、結果的に何も倫理的問題として語られえなくなる危険性)につねに自覚的であった(これについては『フランス哲学思想研究』誌上の拙論で論じたので、関心のある方は御参照頂けたら幸いです)という点。この二点について、Cohoon氏も全面的に同意してくれたが、それでも自然への倫理を語らねばならないという回答であった。レヴィナスの人間主義については、様々なレベルでの批判があるが(デリダの批判は深い次元での批判であると思うが)、レヴィナスが言語を倫理の中心に据えることで極めて自覚的に人間主義を保持し続けた意義が「哲学的に」再考されない限り、こうした批判は意味をなさないように思われる。レヴィナスの哲学が言語とは「別の」次元で、享受の次元を正当に評価している点で、「自然に抗する倫理」とも呼べないことも付言しておきたい。
 
Jesse Sims, The Advent of the Ethical in Difficult Freedom
Martin Gak, The New Levinas

 前者は、レヴィナスの存在論解釈について手堅くまとめ、現存在の事実性に対してユダヤ的事実性なるものを対置した発表。レヴィナスがDaseinをêtre ici-basと訳したことを手掛かりに論じていた。ユダヤ的事実性は、責任によって定義される点で現存在の事実性とは異なるが、それも存在論の次元から切り離されえないというのが結論だった。後者は、倫理の対象は何らかの仕方で「知られねばならない」という前提から出発して、レヴィナス哲学を「自然化する」(!)という発表。ニューロサイエンスなどを持ち出して、知られうるものに対してのみ倫理は成立しうるというテーゼを打ち出していた。
〔寸評〕
 前者は、レヴィナスの存在論読解研究としてはJean Greisch等の論文(J.-L. Marion (éd.), Positivité et transcendance所収)を超え出ていないし、「ユダヤ的事実性」に関しては哲学的規定が欠けていたため、物足りなさが残った。事実性という概念自体が哲学的に規定するのが難しいのだが。。後者は意気込みは買いたいが、あまりにレヴィナスを離れて行ってしまったため、途中からついていけなかった。ただし、倫理の対象がいかなる仕方で「知」に関わるかという問題提起自体は重要なものであると思う。
 
 午後は、Atelier Franco-Ukrainienに出る。

Jean-Fraçois Rey, Politique de l’autre homme : E. Levinas et la philosophie politique
 邦訳の著書(合田正人・荒金直人訳『レヴィナスと政治哲学』)もある政治哲学の専門研究者レイの発表。政治学を政治的行為についての評価、政治哲学を政治的なものについての考察と区分したうえで、レヴィナスの政治思想を目的論的でもなく、自由を前提とすることもなく、数的多数性とは異なる複数性(multiplicité)、「私」の複数形ならざる複数性を評価する思想として位置づける。
〔寸評〕
 具体的な政治思想で切り込むかと期待していたが、レヴィナスの思想のパラフレーズに終始した感があり、やや期待外れであった。レイは他なる人間の政治思想なるものをレヴィナスのなかに見出し、レヴィナスの人間主義を評価していたが、共同体論における人間性の位置づけ(humanité tout entièreと『全体性と無限』では言われる)と他者論における人間性の位置づけ(対話者、人格として現れる人間)には区別が必要だと思われる。
 
Jean-Michel Salanskis, Levinas et l’anthropologie
 私のパリでの指導教授サランスキの登場(コロックの後でサランスキの世話をしていたウクライナの御姉様に聞いてみたところ、サランスキは東欧系のユダヤ人ということで、もともとはザランスキスという発音らしいが、フランスではサランスキと呼ばれているらしい。彼女自身も絶対的な確証はないらしいが、彼の風貌と名字を考えると90パーセントくらい間違いなしとのことだった)。レヴィナスの「人間学」を考えるという意欲的かつ内容に富んだ発表であった。
 まずはレヴィナスの「人間学」なるものを語ることがlogos(theoria)としての人間を考える点で一見するとレヴィナスの考えとは正反対の試みに見えること、その上でなおレヴィナスの思想を人間の多様な在り方を正しい仕方で評価する思想とし、人間の「人間性」から人間の「存在」を考えるものとして「人間学」を考える。人間の在り方の特徴(l’humain)を考えるうえで手掛かりにされたのは、『実存から実存者へ』の基体化(hypostase)、『全体性と無限』の感受性(sensibilité)、『存在するとは別の仕方で』の「無限」についてであった(三つ目は時間が足りず十分には話さず。この点については8日の本屋での談話参照)。
 まず「逃走論」以降のレヴィナスの反存在論主義の意義を人間の在り方の再編集(recollection)として位置づけ、それを「対象への関わり方」として捉えられるような心理学主義を拒否するものであると主張。「基体化」を何らかの対象との関わり方ではなく、純粋な存在の運動(il y a)のうちでの一極への集中化の要求(revendication)、すなわち「ミッション」と捉える。存在というプロセスのなかでのこの同定化(identification)は、偶因的表現(l’indexicalité)、すなわち「これ」、「ここ」、「いま」といった表現がそれを発する者への参照を要求することと結び付けられる。この自己への純粋な参照が、存在論的ではない「出来事」としての「基体化」と解釈される。
 次に、『全体性と無限』における「享受」としての感受性の考察が、感性を認識の第一段階と捉えるあらゆる思想(cf. J. McDowell)への拒否として、代謝(métabolisme)の評価として理解される。享受もまた何らかの意味ある行為に「なるもの」と理解される限りで、レヴィナスはある種の構成的認知主義(constructivisme cognitif)の立場を採っているとサランスキは理解するが、しかしそれは存在論とは無関係な合理性(現代科学の合理性を認める立場sceintifisme)に関わるものであると考えられる(この箇所、cognitivismeの理解が報告者は不充分なため、十分な理解には至っていない。間違えていたら訂正してください)。この点で享受も一つのミッションとみなされる。
 さらに倫理的関係についてのレヴィナスの考察が、他人の意味の現象学(la phénoménologie de la signification d’autrui)として考察される。他人の意味が他人についての知識から区別される点をいかに理解するのかという問題に対して、サランスキは存在論的把握のある種の訂正(correction)として理解するという道をこの発表では採っていた。これは、倫理の問題圏が存在論を通過せざるをえないという(少なくとも『全体性と無限』までの)レヴィナスにおけるある種の目的論を指摘するためであった。『存在するとは別の仕方で』において「人間」は、倫理的意味が存在論を通過する場(lieu de passage)として捉えられているが、同時に存在の論理を再定義する場として考えられていることを指摘してタイムアップとなった。
〔寸評〕
 明確な問題意識のもと、レヴィナスの人間学を全く新たな仕方で評価し直そうとする試みは、いつも感心させられる。一見、無理やりこじつけたような解釈もレヴィナスのテクストの深い読みに裏打ちされている。今回サランスキが打ち出した新たな論点は、『実存から実存者』における「基体化」などをレヴィナスがフッサール−ハイデガーから受け継いだ存在仕方の分析を存在論的に解釈するのではなく、対象が定まっていないものに対する要求(revendication)、ミッションとして理解するという点であろう。この点で、レヴィナス哲学における存在論との目的論的関わりはこの発表に関する限り否定的に捉えられていたように思われる。当然ながらこの点に関して、存在論の不可避性を主張するレヴィナス研究者から質問が出たが、サランスキは存在論の可能性を決して否定的には捉えていないと返していた。
 夜のカクテルパーティーのときに私なりの質問をぶつけてみた。一つは、相対主義の問題である。レヴィナスは、フッサールとハイデガーそれぞれによる人間学主義への批判を(おそらく)当時の誰よりも理解していた。サランスキの発表は、ハイデガーによる批判(substanceとしての主体主義批判)を免れているが、相対主義への危険性を孕んだ人間学主義に対するフッサールの批判を免れえない危険性がある。というのも彼が依拠していた『実存から実存者』における偶因的表現は、フッサールが意味の理念性を考える際に最も注意深く考えていたものであり、サランスキのように解釈するなら意味の相対主義の危険性を回避しえないと思われるからだ。この問いに対する答えは、意味の同一性に対するウィトゲンシュタイン−クリプキ(クリプケンシュタイン)的懐疑論は避けがたいものとしてあるものの、それを全面的に克服する体系を作り出すことではなく、懐疑論を肯定的にとらえその只中で意味の同一性を要求していく議論を行うというS・カヴェル的な対処法をとるというものだった。この対処法は、実はサランスキと私に共通する立場で、カヴェルの議論(cf. The Claim of Reason)が受け入れられて久しいフランスにおいては目新しいものではなく(サランスキは、すでにSens et philosophie du sensやウィトゲンシュタイン−クリプキを扱った論考のなかですでにこうした方向性を打ち出しているが)、あまりに同じ発想をとっていたのでびっくりすると同時により詳細に煮詰める必要性を感じた。二つ目の質問は、レヴィナスの目的論的発想を肯定的に捉える道筋があるのではないかというものであった。レヴィナスの思想が多様な世界との関わり方を正当な仕方で評価しようとしているという点では異論はないのだが、レヴィナスが語る倫理が問題となる場合、世界の共有と言語の意味が必ず問題となるので(『全体性と無限』)、享受の対象、認識の対象、他人が何らかの仕方で同一性を有する可能性が保持されなくてはならない。レヴィナスの目的論は、この倫理的要請にある種の仕方で答えているのではないかという質問についてはサランスキも同意してくれた。ただし、あくまで他人への語りかけにおいて初めて、この対象性が問題化されるという「ミッション」の要素をサランスキはより重要視し、こうした考えがレヴィナスの発想により近いという彼の意見には同意せざるをえなかった。
 
Sergiy Yosypenko, Levinas et Skovorada dans le contexte de la pensée philosophique européenne
 ウクライナ人の発表者によるレヴィナスとウクライナの思想家スコヴォラーダの比較考察の試み。時代も背景も異なる二人の思想家を歴史に対するアプローチという観点から結びつけるものでレヴィナスの歴史概念を考えるうえで刺激的だった。
〔寸評〕
 両者の思想を自らの時代に対する哲学(la philosophie de son époque)として位置づけたうえで、レヴィナスのローゼンツヴァイク読解のなかに時代性の発端を見出すという態度を見たり、歴史性と普遍性の関係をどのように考えるかという問題提起は興味深かった。サランスキが、レヴィナスの歴史哲学は現象学的なものであるのに対して、スコヴォラーダ(彼も初めて聞いた思想家らしいが)はレオ・シュトラウス的ではないかという質問を提起していた。
 
 この日最期のセッションは、知り合い二人が発表したKant et les néo-kantiensの部に出た。

Masumi Nagasaka, La complicité de la foi et du savoir chez Levinas – en la confrontant avec celle de Kant
Christian Rössener, Une loi venue d’ailleurs ... L’autonomie kantienne comme difficile liberté

 このセッションについては、いずれ長坂さんご本人からご報告頂く予定。私が二人に提起した質問だけを記しておく。長坂さんの発表は、レヴィナスにおける「信」と「知」の問題をカントのそれと対比して興味深かったが、レヴィナスにおける「信」と結びついた「知」が客観的認識としての「知」といかなる意味で異なることになるのか、厳密な定義が必要ではないかと質問した。
レーズナー氏は、レヴィナスとカントについての博士論文をドイツですでに提出した方で、カントとレヴィナスの関係について大会中大いに議論して有意義だった。一般に流布していると思われる「カントの倫理の形式主義に対してレヴィナスが個人の具体性から倫理を考えた」という発想は、カント理解としてもレヴィナス理解としても根本的に誤っているという意見で意気投合し、カントの『徳論』などにおける詳細な規定からレヴィナスのカント読解をもう一度再考すべきという意見で一致した(彼の博士論文では、この比較が或る程度なされているらしい。ちなみにこうした意見はわれわれの独創ではなく、カント研究においては主要な潮流となりつつある。この点に関して関心がある方は、A・ウッズの著作、例えばAllen W. Wood, Kantian Ethics, Cambridge: Cambridge U. P., 2008などを参照)。ただし本発表では、より大きな問題領野で両者を比較していたので、彼のよさがあまり出ていないように感じた。カントにおける人間の尊厳をレヴィナスの人間主義と結び付けようとした試みに対しては、カントにおける人間の尊厳が「人間を手段として扱わずにそれ自体として目的とする」という手段―目的連関のうちで考えられているが、レヴィナスにもその連関を導入しうるのかという質問を提起した。レーズナー氏いわく、ある対談でレヴィナス自身がカントの人間の尊厳を上のように規定したうえで自らの思想に取り入れているので、可能というのが彼の答えだった。 
 
7月6日
Juan A. Garcia Gonzaléz, L’altérité et la réalité personnelle; la liberté dans le volontarisme de Levinas

 レヴィナスの自由概念を『全体性と無限』や『存在するとは別の仕方で』などをもとに解明しようとする試み。
〔寸評〕
 タイトルに引かれて行ったが、レヴィナスが言ったことをそのまま繰り返すという私が最も苦手とするタイプの発表だった。レヴィナスの自由概念を積極的に評価しようとする試みは、私も重要だと思うが、「自由に対する他者の先行性」と「自由が正義の次元で肯定的に評価される」ということを何度繰り返しても、哲学的にも自由論としても何の意義も持たないように思われる。むしろタイトルにあったvolontarismeとの関連や逆に帰結主義(conséquentialisme)との差異を突き詰めたらより面白い発表になったのではないか。私が聞き逃したかもしれないので訂正できる方は訂正お願いします。
 
Joëlle Hansel, Au-delà de la paix, de la justice et de la pitié : la consolation
 シモーヌ・レヴィナス(レヴィナスの娘)の息子Davidの奥様ジョエルの発表。この発表については、私より適任の方が報告して下さる予定。彼女の論文と同様、非常にクリアな発表で大いに啓発的だった。彼女の論文には、ルイ・ラヴェルやマルセルなどといったフランスの「もう一つの存在論」の潮流からレヴィナスの初期思想を理解しようとするものがあり、興味深い。発表についての質問は最後までジョエル本人に問えなかったが、、哲学的に「対話者」としての他人を考えていくレヴィナスが唯一的な他人に対する責任を語るのに対して、メシアニズムを語るレヴィナスは容易に「すべての他人に対する責任」を語るが、この跳躍をどのように理解したらいいのかというものだった。

Traversées philosophiques
François Brémondy, Levinas et l’Affaire Spinoza
Michal Kozlowski, Une esquisse pour une réflexion sur l’héritage Spinoziste et Levinassien
Mark Cauchi, The Politics of Philosophy and Religion

 スピノザに関心があったのでスピノザ部門を聞いた。一つ目の発表は、スピノザとレヴィナスの聖書理解を「奇蹟」についての『神学政治論』の扱いなどをテーマに比較する試み。レヴィナスの聖書に対する態度をスピノザのそれと近づけつつスピノザを擁護する試みのように聞いた。G. Hanselがユダヤ教のタルムード読解の仕方は、スピノザのそれとは根本的に逆の立場に属するといって譲らなかったのが印象的だった。
二つ目の発表は、スピノザの主体論とレヴィナスの主体論とを比較考察する試みで刺激的だった。発表者によるとスピノザとレヴィナスは、実体としての主体ではなく実体の様態としての主体化という考え、倫理的行為のうちでの主体化という考えを共有している。こうした視点からKozlowski氏は、コナトゥスを自然の原理としてではなく共同体のうちでの自己への気遣いでありかつ倫理的な行為であることを強調し、スピノザ哲学をレヴィナスの思想へと近づけようと試みた。〔寸評〕こうした試み自体が正当なものかはスピノザに疎い報告者には判断できないが、Kozlowski氏に尋ねたところ、こうしたスピノザ読解はマシュレイのスピノザ論にもとがあるらしい。私は、仮にこうした対比が可能であったとして、スピノザとレヴィナスにおける「行為」の意味が問題になるのではないかと質問した。
 三つ目の発表は、レヴィナスの「世俗化」の議論(『困難な自由』、『神・死・時間』など)を政治思想の枠組みから理解しようとする試み。わかりやすく「よい世俗化」と「悪しき世俗化」を区別して議論していたが、結局レヴィナスの世俗化の議論のいかなる点が新しいのかがあまり判明にはならなかった。
 
午後
Levinas et le Politique (II)
Carl Cederberg, Levinas Resaying the human

 2年前カウナスの北欧現象学会で共に発表したスウェーデンのレヴィナス研究者カルルの発表。レヴィナスの人間主義をテーマにした彼の博士論文の一部(というより博士論文を持ってきて抜粋して発表・・・)。レヴィナスの人間概念を初期の現象学研究から後期の他人との関わりへと連続的かつ肯定的に解釈しようとする試み。デリダの人間主義批判を重要なものとみなしつつ、レヴィナスの人間概念のうちに「規範性」概念を見出すことで、レヴィナス的倫理が有する「批判」の可能性(この可能性が「正当化」(justification)の可能性と結びついていることを強調していた)を生かそうとした。
〔寸評〕
 私も修士論文の際に同じテーマを扱ったので大いに関心をもってのぞんだ。しかし結果的には、2年前の発表と同じ問題がいまだ存在しているように思われたので質問させて頂いた。レヴィナスの人間概念は極めて多義的である。初期のレヴィナスは、現象学的な志向作用が世界との具体的な関わり方を考察することを可能にしたという点で、あらゆる志向作用を「人間的」と述べている。『全体性と無限』では、生物学的な機能との対比で享受という世界との関わり方が「人間的」と呼ばれたり、他人との関わりや第三者との関わりが人間的と呼ばれる。晩年(『観念に到来する神について』など)になるともっぱら〈他者〉としての他人、さらには他人の他性としての「無限」(神)との関係が人間的と呼ばれるようになる。もしこうした多義的な人間概念を統一的に解釈しようとするなら、これらのすべてに共通する「人間」概念を取りださなければならない。しかし、仮にもしそれができたとしても極めて茫漠とした概念にならざるをえないのではないか。私の仮説としては「人間」は、レヴィナス思想の出発点でありかつその具体性を説明するという彼の議論の終局点でもある。したがって、この概念を統一的な仕方で定義するのは難しいと思われる。無論、後期の人間概念を定義することは可能だし、発展史的な説明は有効かもしれないが、それだけではレヴィナスの人間概念をどのように評価するかという課題には答えられない。私としては、世界との多様な関わり方に対するレヴィナスの分析をそれぞれ「人間性」として救い出すサランスキの手法が今の時点ではもっとも有効であるように思われる。
 
Richard Middleton-Kaplan, Justice at the Crossroads: Levinas’s “Eye for an Eye” as a Response to Gandhi
Stephen Minister, Hearing “Social Justice” in Levinas’ Work

 前者は、レヴィナスの暴力論とガンジーの非暴力論を比較しようとする野心的な試み。議論構成には大いに問題はあったが議論は盛り上がった。。二つ目は何と発表者が子供の出産に立ち会うために欠席し、彼の学生が代読。。レヴィナスの思想の社会的正義という問題を扱っていたが、内容には新鮮味がなかった。普段はどんな発表でも必ず最後まで聞くサランスキでさえ途中退室。学会に出席できないなら発表を取り下げるべきであり、聞き手への敬意を欠いているように思われた。発表以前の問題である。 
 
7月7日
Levinas et Simone Weil
Sylvie Courtine-Denamy, Emmanuel Levinas et Simone Weil : la question de l’Universel

 クルティーヌ=デュナミは、パリ第4大学のクルティーヌの奥様でアーレントの研究者として著名な方とのこと。私の発表の際の司会をしてもらったのだが、非常に感じが悪く付き合いづらい人かと思ったが、実際に話してみると典型的なフランス人の奥様で感じは悪くなかった。アーレント、シモーヌ・ヴェイユ、エディット・シュタインについて書いた本の日本語訳が晃洋書房より出版されている(『暗い時代の三人の女性――エディット・シュタイン、ハンナ・アーレント、シモーヌ・ヴェイユ』)。訳者がパリでよく知る研究者仲間だと聞いてびっくりした。ちなみに彼女は、68年にパリ10大学でC・シャリエと一緒にレヴィナスの講義(『神・死・時間』に採録されるヘーゲル講義)に出席していたらしい。当時は、レヴィナスのほかにも、リクール、リオタール、アンリ・ルフェーヴルなど錚々たる教授陣がいて彼女は最終的にはルイ・マランの指導のもと美学で博士号をとったとのこと。
 シモーヌ・ヴェイユとレヴィナスとの関係については、ヴェイユの研究者の視点からヴェイユの思想について細かく語られていて勉強になった。ヴェイユは、エジプト思想などにも遡ってユダヤ=キリスト教の普遍性を探求するなかで、ユダヤ教における「精神性」の欠如を批判した(この点でベルクソンと同様)。レヴィナスはヴェイユにおいては、普遍性の障害であったparticularismeを肯定的に理解し直すことでヴェイユとは異なる「真の普遍主義」、ユダヤ教的でもキリスト教的(kathoric的)でもないメシアニズムとしての普遍主義を模索したという結論であった。
〔寸評〕
よくまとまっていたが、肝心のレヴィナスの普遍主義がいかなる厳密さと意義を有するかについてはあまり掘り下げられておらず、それについては最終日のサランスキの講演を待たざるをえなかった。
 
Shmuel Wygoda, Levinas et le Christianisme : Une proximité lointaine
 Wygoda氏の発表は、A. Badiouがレヴィナスを単なる神学、神智学(théologie, théosophie)とした批判を取り上げて、真っ向から反対する発表だった。Texte talmudiqueの有名な一節「もし生きているもののなかにメシアがいるとするなら、それは「私」(Moi)である」をとりあげて、各人が「潜在的」には「メシア」でありうることをレヴィナスが主張したと論じ、こうした潜在性をハイデガーの現存在における根づきと対比した。
〔寸評〕
 後半は冗長になってしまったが、レヴィナスのメシア的テクストまでをも哲学的に吟味しようとする姿勢は、評価できた。しかし「潜在的な」メシア性と現存在の根づきとの対比は、哲学的には深められていなかったのが残念だった。そもそも「潜在的」という語が曖昧だし、ハイデガーの現存在=根づきとして片づける議論は、ハイデガーを当時の誰よりも理解していたレヴィナスの思想を考える際には極めて危険なものである。
 
Rita Fulco, Identité juive et obligations envers l’être humain : le divergent accord entre Simone Weil et Emmanuel Lévinas
 レヴィナスとシモーヌ・ヴェイユに関するイタリア人の発表。「人間性に対する責務(obligation)」という概念に着目してレヴィナスとヴェイユの近さと隔たりを論じた発表。
〔寸評〕
 個人的には発表それ自体は悪くなかった。しかし発音にかなりの難があり。。inをすべて「イン」と発音されると、私のような外人にとってはまだわかるが、フランス人には我慢しづらいところがあるかもしれない。私も人のことを言えた身分ではまったくないのだが、外国で発表するときは、必ず誰かに聞いてもらって発音を矯正してもらうことが必要ではないだろうか。この発表、クルティーヌ・デュナミが最も通じている人であったが彼女は発表が終わる前に我慢しかねて立ち去って行った。。
 
Le langage en question (III)
Shojiro Kotegawa, La raison et la violence dans la philosophie du langage de Levinas

 私の発表は、直前で「理性と暴力――レヴィナスの言語哲学における」と改題してもらった。『困難な自由』最初の論考「倫理と精神」(1952年)の分析をもとに、レヴィナスの理性概念と暴力概念の関係を明らかにすることで、一般に流布しているデリダによるレヴィナスの非暴力の解釈に乗らない形でレヴィナスの言語哲学と理性主義の徹底性を解明する端緒としたかった。まずレヴィナスの「精神」概念が「内的生」への批判から始まり、言語による他人との具体的な関わりのうちに他人との「精神的」関係が見出されることを明らかにした。その際、レヴィナスは、「理性」だけが自己を見失わない仕方で他人を受け入れられること、さらに言語活動によって、認識対象としての他人に先んじて対話者としての他人に訴えることで、「非暴力的な仕方で」人格(personne)としての他人に働きかけられることを強調する。こうした主張の根底にあるレヴィナスの哲学的前提、すなわち理性による誰かを「理解する」(entendre)という行為が、思惟主体のうちでの概念的把握としてではなく、他人の面前で他人を受け入れる仕方を否応なく提示しつつ、新しい事柄を受け入れ、理解していく行為と解されていること、さらにそうした理解が前言語的な関係としてではなく、言語活動のうちでの暴力なき活動(action sans violence)として理解されていることを明らかにした。こうしたレヴィナスの理性論、言語主体論は、理性や行為が世界において初めて存在し、意味をなすとするヘーゲルの考えをある仕方で受け継いでいること、ただしレヴィナスにおいては、絶対精神に至る精神の一側面としてではなく、内面的主体とは異なった仕方として言語主体の在り方が論じられていること、こうした言語のうちでの主体化論は、オースティンの言語主体論(通俗的な言語行為論ではなく)と密接な連関を有することを結論で触れた。
 サランスキから二つ質問を提起された。一つは、レヴィナスの「顔」概念が、オースティンの言語内行為の「力」と関わりうるのかという問い。もう一つはレヴィナスの「精神」概念が「存在」と関わっているのかという問いであった。前者に対しては、もしレヴィナスの言語主体論が言語のうちでの主体化という問題系を明確に語りえているなら、何らかの仕方でオースティンの言う「力」とも関わっているのでなければならない、ただし『全体性と無限』では他人への語りかけ(parole)が「行為」(action)から区別されると共に、「顔」が「いまだ存在しないものの」力と考えられているので、より緻密な分析が必要であると返答した。二つ目の質問に対しては、レヴィナスが他人を受け入れる理性と対象の存在を客観的に把握する理性という二つの理性概念を考えているが、両者が単に異なるだけでなく、前者が後者を条件づけると述べていることから、言語活動に関わる精神概念が前者にだけでなく後者にも関わらねばならないし、その限りで存在とも関わらねばならないと返答した。しかし、二つの質問とも私の研究の核を突くものだったので、十分な形で返答できなかった。質問は予想しうるものだっただけに準備不足と(語学)力不足を悔いた。
 後日、サランスキと話したところ、オースティンとの関連についてはさらに突っ込んだ質問をしてくれた。「暴力」概念と「力」概念との関わりや〈顔〉概念と暴力概念の展開など、まだまだ詰める点はあるが全体としては非常に面白かったと励まされた(おそらく学生にやる気を出させるのも教授の仕事なので…)。彼の二つ目の質問は、『全体性と無限』でのpsychismeや『存在するとは別の仕方で』のinspirationに至る「精神」概念を全体としてどのようにとらえていくかという射程をもった問いであったということに後に気づいた。これは今後の課題としたい。
 
Pierre-Antoine Chardel, Quand la communication perd la parole ... Lecture d’Emmanuel Levinas
 Chardel氏は今道友信先生のお知り合いで、2月に日本で発表されたとのこと。レヴィナスの言語論と共同体論をデュルケームとの比較などを通じて考察。
〔寸評〕
全体的には論旨が明確でわかりやすかった。ただしレヴィナスの共同体論をそのままの形で提示し、他人との倫理的関係によって共同体の可能性が根本的に変わりうるという議論は、それ自体を論じてもあまり説得的ではないように思われる。レヴィナスの言語論を通じて、共同体の何がどのように変化しうるかということを具体的に示していただけたらと思った。こうした具体的なレヴィナスの共同体論の展開可能性を語りえている論文について、私は(私の不勉強であろうが)Levinas à Jerusalemという論集のなかに入っているサランスキの論文(politique phénoménologique)以外に知らない。
 
(つづく)
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