トゥールーズ・レヴィナス『困難な自由』コロック報告(3)(小手川正二郎)

 

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 疲れがたまって午前のコロックは欠席。

 Projection de Henri Bergsonというベルクソンのドキュメンタリーは、様々な人々へのインタビューをもとにベルクソン像を再構築しようとしていて興味深かった。ベルクソン哲学を一言で要約すると?というダイレクトな質問に対して、ある哲学者が「全体が部分に先んじて実在する」(Le tout existe avant la partie)と答えていたのが印象的だった。 

午後のコロックLevinas et éducationおよびLevinas et christianismeについては他の方からの報告がある予定。私は、レヴィナスの伝記作家として有名なMarie-Anne LescouretLevinas, Claudel(クローデルについて非常によく調べた発表)を聞いた後、キャピトル近くの本屋でのL’itinéraire de pensée d’Emmanuel Levinas4Autrement qu’être ou au-delà de l’essence et « Dieu et la philosophie » に出た。このシリーズは、大会参加者の大物たちが各回担当を変えてレヴィナスを一般読者向けに紹介するという企画。時間の関係で三日目までは出れなかったが、この日はジョルジュ・ハンセルとサランスキのタッグだったので出席。ジョルジュ・ハンセルの発表は、一般向けで、『全体性と無限』から『存在するとは別の仕方で』への移行を「私に対面する他人」(autrui en face d’autrui)から「私の内なる他者」への移行として説明するというもの。私個人としてはこの解釈に若干の抵抗を覚えるのだが、ハンセルが『全体性と無限』では「顔」(visage)という言葉が何回使われているのに対して、『存在するとは別の仕方で』では「主体性」という言葉が何回使われ、顔は何回に減ったという説明の仕方をしていたのは、わかりやすかった。 

 その後サランスキが、『存在するとは別の仕方で』、「神と哲学」(『観念に到来する神について』所収)について語る。まず彼は、後期レヴィナス思想に対するいくつかの評価(『全体性と無限』の超克、逸脱、誇張化、非理性的な言説の展開、哲学の宗教化)に真っ向から反対する立場を採ると述べる。その上で上記著作の特徴を(1)私が他人に負うものという視点の強調(substitution, otage, etc)、(2)超越に関わる用語の多用、(3)理性の計算可能性としての正義の強調という三点にまとめ、こうした特徴は、サランスキが解釈するレヴィナス哲学全体の企図、すなわち(1)いかにして人間は世界に住みうるのかという問題の忠実な記述、(2)人間性の意味の探求という二点を突き進めたものと主張した。

 『全体性と無限』においては「享受」としての感受性概念が語られていた一方で『存在するとは別の仕方で』では、感性的な経験が「すでに」他性との関係(一者から他者への意味signification de l’un à l’autre)を孕んでいることに焦点があてられるが、サランスキはこうした「すでに」という関係の強調をレヴィナスによるarchaïsation(起源化)というシナリオの導入として解釈していた。こうした他性との関係においては、個々の他人(autrui)と(他人の他性としての)他者(l’autre)の区別と関係性が問題となるが、『存在するとは別の仕方で』や「神と哲学」における他人と区別される他性すなわち「無限」の強調は、こうしたシナリオにおいて理解される。感受性において捉えられる他者性、主体性のうちで考えられる「無限」は、「無関心ではいられないこと」(non-indifférence)と特徴づけられる。このような無限の特徴づけをサランスキは、無限の「非存在論化」、すなわち無限を考えるとき、存在論的な次元だけでなく、人称的・倫理的な次元で捉えざるをえないという無限の人称化的(auto-personnel)性格として解釈する。この点で、人称性(他人の「顔」)の方から他者性について語る『全体性と無限』のレヴィナスと無限の方から人称的な他人について語る必然性を導出する『存在するとは別の仕方で』のレヴィナスの差異が説得的な仕方で提示された。

こうしたレヴィナスの思想の解釈に対して、聴講者からは様々な質問が寄せられた。長坂さんがレヴィナスの無限概念とカントの理念、そしてカントの理念をある仕方で受け継いだフッサールの理念性との関わりについて質問された。サランスキの答えは、無限を考えるときに(1)数学的無限、(2)言語などの規則における無限性という二つの無限を考える必要があるということであった。そのうえで(おそらくカントやフッサールにおける統整的理念の役割を後者の無限概念と同一視しつつ)レヴィナスの無限概念が人称的性格を有するという点で(2)の無限概念とは区別されるとしつつ、カントール以降、つねに現働的な(actuel)なものとして理解されることになった数学的無限が概念化に対するある種の異質性を保持している点で、それをレヴィナスの無限概念に近づけることは可能ということを示唆した(言うまでもなく、サランスキはフランスにおける数学の哲学の代表的な研究者であり、レヴィナスの思想を科学哲学の文脈でも評価しようとする。関心がある方は彼の著書Levinas vivantなどを参照)。こうした解釈をレヴィナスは受け入れないと思うが、同席するジョルジーは受け入れてくれると思うと冗談交じりに語っていたのが印象的であった。

 

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コロック最終日。

Frédéric Worms, Le visage de la philosophie française du XXème siècle dans Difficile Liberté

ベルクソン研究の第一人者ヴォルムスは、『困難な自由』のうちに見出せるレヴィナスと(当時の)「フランス哲学」との関係をめぐる発表だった。この関係は、三つの関係として考えられる。一つ目は、一つの「全体」として捉えられた「フランス」という「顔」との関係である。この日一つ目の関係のうちにも(1)歴史的側面で捉えられた「フランス」、(2)普遍主義・自由主義の担い手として捉えられた「フランス」という側面が区別され、ヘブライズムにおける普遍主義と人間性一般の探求としてのフランス哲学との対比のうちで、レヴィナスが(1)各人の自由(責任や倫理の次元で捉えられた自由)の困難さと(2)政治的自由の要求がその内部に暴力を孕んでいるという二重の困難に直面していたと論じた。二つ目は、個々のフランス哲学者たちの「顔」との関係である。ヴォルムスは、論考Simone Weil contre la Bibleにおいてレヴィナスが哲学者の「形象」(figure)、すなわち哲学者の立場や学説にではなく、哲学者の「顔」に向かい合おうと

したことに注目する。さらに、こうした顔の二つの系列、ブランシュヴィックの系列(ジャン・ヴァール、ジャンケレヴィッチ、ベルクソン)とヴェイユの系列に対するレヴィナスの近さと隔たりをユダヤ性への態度の違いなどを通じて語った(例えば、シモーヌ・ヴェイユについては、彼女の知性に対するレヴィナスの近さに対して、彼女が「正義の名のもとに」ユダヤ教を批判していることに対するレヴィナスの批判を回顧した)。三つ目の関係は、フランス哲学としてのレヴィナス哲学自体を通じたフランス哲学との関係であり、実存主義のハイデガー理解に対するレヴィナスの批判的態度やベルクソン哲学に対するレヴィナスの付け足し、デリダ、リクールとの論争などが触れられた。 

〔寸評〕

 レヴィナスにおけるフランス哲学への関係性という問題提起およびそれを様々な側面から考えるという仕方は大変興味深かった。三つの関係性とそれらのうちでの図式化もわかりやすく、様々な問題の所在が明らかになったように思われる。あえて無いものねだりを言わせていただければ、図式化が先行してしまい、個々の論点については十分に掘り下げられていないように思われた(ヴォルムスの講演を聞くのは3回目になるが、残念ながらいつもこのような印象を抱く)。おそらく非常に忙しい人なので時間が足りないのであろうが…こうした問題提起をわれわれがいかにして引き継いでいくか考えることが重要なのだろう。

私が質問したかったのは、レヴィナスが対面していたフランス哲学の「顔」は、すでにフッサール現象学とハイデガー哲学によって相対化された「顔」ではなかったかということであった。実際、レヴィナスがブランシュヴィックを批判する際、最も問題になるのは普遍的理性を目指す可能性を担保された生得的な理性概念とそれに立脚した主体性概念に関してであり(「記述から実存へ」参照)、またヴァールやサルトルに対しては根本的にハイデガー哲学を誤解している点にあった。無論『困難な自由』においては、ヴォルムスが際立たせていたユダヤ教における普遍主義とフランス哲学の普遍主義の対比が問題になっているのは確かであるが、両者の間にはつねにレヴィナスが理解したフッサールとハイデガーの立場が介在しているように思われる。 

Eric Hoppenot : Traces d'une lecture (Maurice Blanchot lecteur de Difficile liberte) 

レヴィナスとブランショの関係をめぐって、主に両者のメシアニズムについての考え方の近さと差異について論じた発表。私より適任の報告者の方が報告して下さる予定。 

Sean Hand : Taking Liberties: Re-situating Difficile liberté 

ケンブリッジ出身の『困難な自由』の英訳者による講演。フランス語を織り交ぜながら、ジャン・ヴァールやヤコブ・ゴルダン、スタロバンスキなどにも目を配っていた。『困難な自由』における「イスラエル」という語の使い方が、国家としてのイスラエルとは異なった意味で使われているときがあるという指摘などがなされた。 

Jean-Michel Salanskis (Nanterre) 

本コロックの掉尾を飾る講演。サランスキは、まずレヴィナスの思想において、様々な事象に対する感度・感性(sensibilité)を考察することが多様な「世界」について語ることを可能にしているという仮説から出発し、『困難な自由』の諸論文のうちにこの多様な感性の展開を見出していく。

1)人格としての他人への感性。レヴィナスにおける「他人」との関係の考察には、ある種の人格主義(personnalisme)が見出される。 « L’agenda de Léon Brunschvicg »では、ブランシュヴィックがヨーロッパ的普遍主義の担い手として描かれるが、それはブランシュヴィックに新カント派というラベル付けを与えることではなく、人間の生の在り方のうちにその生と切り離されない思想と普遍性を見出すことであった。ローゼンツヴァイクについて語っている « Entre deux mondes » では、ローゼンツヴァイクと彼の作品との関係が人格化され、彼の著書がまさしくローゼンツヴァイクそのものとして描かれている。

 (2)世界との合理性を通じた関わり。レヴィナスは科学的合理性を新たな仕方で再評価している。 « Pharisien est absent »では、パリサイ人に対する無関心は、合理的な能力の自己満足と結び付けられ、合理的な能力の起源をなすものの必要性が語られる。こうした態度は、一方で(a)知識のうちでの問いの到来を待ち、合理性のうちで耐えること(endurance)というモチーフを浮かびあがらせる。他方で(b)合理性や知識の成果を一つの閉域(clôture)の成立と結びつけがちなデリダやドゥルーズに対して、レヴィナスはそれらを知識の深化による豊かさや新たな問いへの開かれの契機として理解している。合理性に対するこの肯定的な態度は、レヴィナスにおけるユダヤ教のハヌカの重視と相まって、実効性(effectualité)の原理の導入として解釈される。

 こうした考え方は、 « Simone Weil contre la Bible »において、レヴィナスがヴェイユの真理観を批判する際に、思惟のうちでの普遍性なるものは存在せず、思惟の普遍性は他人との関係によってのみ現実化され、存在しうるという考え方に依拠していることから具体的に理解される。普遍性は「世界のうちで」存在しなければならないというヘーゲル主義的要請をレヴィナスは再提起していると解釈しうる。「全体性」とは、この意味で何かがひとたび世界のうちに出現したなら何らかの仕方で「知られうる」という可能性であり、それが普遍性を有する実効性の領野なのである。

 (3)他人とのエロス的かつ物語的な(errotico-narratif)関係。上述した合理性のうちでの他人との関係が開かれる可能性以外にも、レヴィナスはエロス的な他性との関わり(優しさtendresse、官能)についても論じている。サランスキはこれを他性の「もう一つの系譜」として位置づける。例えばレヴィナスは、愛撫(caresse)について考察しているが、愛撫を対象の把持としてではなく、自己満足に至りえない「いまだないもの」との関係として「語り」、愛撫する自分自身によって他性との関係が開かれるような振る舞いとして考える。オーティス・レディングの曲で具体的に説明しようと試みた。こうしたエロス的、物語的な他性との関係は、「他性」についてのある種の厳格主義(rigorisme)の危険性を和らげるものであると解釈された。

 (4)ユダヤ的人間主義。レヴィナスにおいて「ユダヤ教」は、他の宗教に勝る特権的な宗教ではなく、「人間性を真摯に理解する試み」とみなされているとサランスキは主張する。 « Textes talmudiques »における「メシアとは「私」である」という一節が、メシアニズムは「私」からしか生じえないという、他人への責任を担う主体性の記述・ペルソンとしての人間主義の再創出として理解される。この「ユダヤ的」人間主義は、一方で人間の本質を存在への忠実さに見出すハイデガー的人間理解に、他方で人間の本質なるものを否定しつつ実践のうちで人間になる(devenir humain)というサルトル的人間把握と対比される。レヴィナスは、「人間」を存在の秩序のうちにおいてのみ理解することを拒否し、要請されている名(nom d’exgience)と考えていると解釈される。この要請には、二つの方向性を有する応答がなされねばならないと言ってサランスキは結び。

1)遡及的(retrospectif)応答。自らが属する伝統、文化のうちの蓄積や堆積(sédimentation)から、われわれと世界の関係性を問い直すという方向性。

2)前望的(prospectif)応答。要請・ミッションに従ったわれわれの在り方の変革・構築という方向性。 

〔寸評〕 

 サランスキの発表はつねに問題意識が明確なので、無駄な晦渋さが一切ない。また何より感心させられたのは、こうした問題意識をもってレヴィナスを読み直すことでレヴィナスのテクスト一つ一つが全く新たな相貌をもって蘇るという点にあった。

 今回の発表で「世界性」が新たな視点のもとで解釈されていたが、レヴィナスが『全体性と無限』において世界を極めて肯定的に捉えていたこと(「〈顔〉を語ることは世界について語ることである」、世界が言説によって他人たちと共有される点に人格的関係が見出されていることなどを参照)に鑑みれば、極めて重要な指摘であるように思われる(後日、読み直してみたら、こうした問題意識の一端はすでに彼の著書Levinas vivant, Les Belle Lettre, 2006所収のLevinas et la question de l’espaceで展開されていた)。

そのうえで質問したかったのは、世界において展開される合理性とエロス的な語り口とがいかなる関係性を有するのかという点であった。サランスキはエロス的他性を他性へのもう一つの系譜として肯定的に理解していたが、レヴィナスは他方で他人とのエロス的関わり方に孕まれる懐疑論の可能性を避けるために、言語による他人との関わりとエロス的他性との間に何らかの階層づけを与えているように思われる。サランスキの発表では、両者の区別は明確になったが、こうした階層づけの可能性を彼が受け継いでいるかどうかについては見えてこなかった。質問時間が全くとられず、挨拶に行った時も「やっとバカンスだ」とバカンスモードに入っていたので、質問できず。 

総括 

 コロックを通じて『困難な自由』という一つの著書をめぐって、非常に豊かな議論がなされたということには大変な驚きを覚えた。多様な読みがなされえた理由としては、一方で『困難な自由』という著作そのものが様々な時代に書かれた多様かつ問題提起的なテーマ群(哲学的、宗教的、政治的etc.)に満ちているということが挙げられよう。昨今の文献学的な調査や周辺諸領域の研究の進捗により、レヴィナスのテクストが位置する歴史的文脈や含意がより正確に理解されるようになり、一つ一つのテクストの内的構造や宛先が明確化しつつある(こうした観点から見ると、ジョエル・ハンセルやクルティーヌ=デュナミの発表がとりわけ興味深かった)。他方でレヴィナスの思想の意義が哲学的伝統および人文学の周辺領域との関連のうちで見直され、問い直されつつあるということが挙げられよう(英語圏の発表やヘーゲル、カントとの比較研究)。フランス思想や現象学、さらには分析哲学をも含めた哲学的伝統のうちで、レヴィナスの思考の厳密さが蘇ろうとしているように思われる(ヴォルムス、サランスキの発表)。文献学的な研究と共に哲学的な吟味によって絶えず蘇るテクストを「古典」と呼びうるなら、レヴィナスのテクストはいま「古典」となる道を少しずつ辿りつつあるのかもしれない。

後記

 コロック報告に際して多くの方からご意見やご批判を頂戴したことに深謝いたします。純粋な報告だけでは内容に乏しかったため、「寸評」という形で報告者の意見を添えさせていただきました。ただし「寸評」には、報告者の主観的評価が多々含まれるため、報告だけを読まれたい方は「寸評」を読み飛ばしていただけたら幸いです。また訳に困った表現もそのままの形で載せました。personnalisteという表現は、本コロックにおいてしばしば聞かれたのですが、人格主義と訳すとマリタンらの人格主義を想起させるので別の訳語を充てるべきではないかと考えています。ただ他に適当な訳語が見当たらないため、ご教示を待つ次第です。

  

 

 

 

 

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