トゥールーズ報告書(佐藤香織)                              

 7月4日は夕方からテアトル・ガロンヌにて、開会のスピーチ、映画上映などが行なわれた。他の報告があるので触れないが、特に印象的だったDifficile Liberté関連のインタヴューにおける「真理」に関する一連の受け答えを見て、活字では表されることのないレヴィナスの思想的態度を映像が掬い取っているように感じた。

 一般の発表は、7月5日午前から7月7日午前まで、ミレイユ大学にて5つの部屋で行なわれる。それぞれ部屋には午前に2つ、午後2つの分科会があり、ひとつの分科会が終わるごとに一度ずつ休憩が入る。それぞれの分科会にて2−4の発表が行なわれる。夕方からは教授陣によるコンフェランスや映画上映などプログラムは夜遅くまで尽きない。
 以下、分担させていただいた部分の流れとそれぞれの会の雰囲気をお伝えしたい。
 
7月5日、午前  ミレイユ大学。
 

午前の1つ目の分科会では、 « Levinas et Rosenzweig »に出席し、自分の報告もここで行った。司会者はユダヤ関連の著作が多いDavid Banon。テーマが深くユダヤ教に関わるため、聴衆も一見してユダヤ教に関わっていると見られる人々が多く占めていた。

ここでの3つの発表は必然的にDifficile Libertéにおさめられているローゼンツヴァイク論である « Entre deux mondes » を下敷きとすることになり、内容的に互いに関連のあるものとなった。 « Entre deux mondes »は、1959年、ローゼンツヴァイクの没後30年にレヴィナスが行なったコンフェランスの再録である。こうした背景を経て、それぞれの発表はさまざまなしかたで連続したテーマを扱うものとなった。特に「啓示」概念については3つの発表ともに扱っており、この概念について論じることの難しさと重要さを改めて感じさせられた。

 

Edouard Robberechts (France) : «  « Entre deux mondes » dans Difficile liberté : une trop grande proximité avec Rosenzweig qui serait de l’ordre de l’indicible, du dire ? » 

「二つの世界の間」の二つの世界とは、ローゼンツヴァイクにおいて重要であるキリスト教とユダヤ教に他ならない。特に彼がキリスト教を「道」として、ユダヤ教を「生」として捉え、両者が共同体において補完的な性格を持つものと見ていることは、彼の主著『救済の星』の特徴である。

以上のことを踏まえた上で、Robberechtsの発表は「生」を問題の手がかりとし、ローゼンツヴァイクの『救済の星』の全体性批判の文脈とレヴィナスの全体性批判の文脈をヘーゲル批判の観点から結びつけるものである。これは、レヴィナスとローゼンツヴァイクの関係、特に両者の近さを論じるにあたって不可欠な主題である。「生」という問題は両者において「言語」と「啓示」の論において特徴的に現れる。
ローゼンツヴァイクにおける「啓示」は「神」と「人間」の間に生じる言語的関係を示す。この関係において人間の生が問題となるのであり、ローゼンツヴァイクにおいては、国家から人間の生が考えられることはない。レヴィナスもこうしたローゼンツヴァイクの考えを引き継いでいる。ところが、彼はむしろ「啓示」を「他者」との関係としてとらえなおすのであるが、この関係については、『全体性と無限』は必ずしも明らかにしていない。発表者はこのことを指摘し、レヴィナスが『全体性と無限』においてユダヤ教と「生」との間に見いだした関係が「国家」を前提として「生」を考えることによっては捉えきれないことを示そうとする。
 

Kaori Sato : « Le temps et l’au-delà de l’histoire – Rosenzweig et Levinas  –» 

前の発表でも言われていたが、『全体性と無限』における「啓示」は重要なものとして扱われているにもかかわらず、他の概念と関連づけることが困難である。私が行った発表は、タイトルに「時間」を含むが、時間論の中でも現在と未来の関係のみに焦点を絞り、やはり「啓示」概念を中心に扱った。まず、『救済の星』の時間論において現在として述べられる「啓示」の意味する「絶え間なき更新」と『全体性と無限』における「啓示」との関連を示した。次に、レヴィナスが時間論との関連で、というよりはむしろ主体論の一環として位置づける「現在」と、「啓示」における他者の「現前」についてのそれぞれの思考のあり方がどのように異なるかを明らかにした。この際、レヴィナス自身が明らかにしていない『全体性と無限』における「現前」と「啓示」の論におけるローゼンツヴァイクからの影響を読み込み、「現在」の意味を「未来」との関係から見直した。こうした作業から、レヴィナスにおける「歴史の彼方」としてのメシア的時間を見直すことを試みた。

Michaël de Saint-Chéron (France) : « L’Ethique et la Rédemption »

 ローゼンツヴァイクの「救済」概念から出発し、「聖性」「公現」「ケノーシス 」といったユダヤ教の概念をレヴィナスがどのように取り上げたのかを示した上で、全体性の彼方について考えるための道筋を分析した発表。ローゼンツヴァイクを忠実になぞりながら、その議論の上にレヴィナスの議論を適切なしかたで乗せていこうとする試み。ローゼンツヴァイクにおける「創造」「啓示」「救済」という『救済の星』の中心である第二部のそれぞれの巻の関係を扱い、その最後に現れる「救済」が『全体性と無限』で「他者からの呼びかけ」に「こたえること」において現れていることを示した。ローゼンツヴァイクにおいては、「創造」において出現する閉じた自己が、「啓示」における「私を愛せ」という命令によって、他の閉じた全体である「神」と関係する。そして「救済」とは、自己が世界に対して開かれることである。この図式を、分離したものどうしの関係としての「聖性」という観点から読み込む試みに納得ができた。 

 
  発表後に、ローゼンツヴァイクにおける啓示概念の複雑さについて他の発表者たちと少しだけお話した。『救済の星』第二部は「創造」「啓示」「救済」から成るにもかかわらず、「啓示」が中心的であることの意味についてなど。時間論から考えるにしても、言語論から考えるにしても、この概念は本当に厄介である。
余談ではあるが、司会者のBanonや聴講されていた方々は日本におけるローゼンツヴァイクやユダヤ教関係の受容の程度について興味を持ったようで、既に『救済の星』の和訳があること、最近日本でもレヴィナスのみではなくドイツ・ユダヤ系思想への注目の度合いが増していることを喜んでいた。
 
7月6日 

 午前第二分科会。分科会の間ずっと続いていたフランス―ウクライナのワークショップでレヴィナスの伝記の著作で知られるMarie-Anne Lescourretが発表を行った。レヴィナスは少年時代をウクライナで過ごしたことがあり、彼が、トルストイ、グロスマン、ドストエフスキー、その他多くのロシア文学に親しんだのもその頃からである。今回のコロックでもレヴィナスのロシア文学との関係を扱った発表がいくつか見られた。

 

Marie-Anne Lescourret (France) : « Coupable et/ou responsable, Levinas et Dostoïevski » 

レヴィナスは彼の考える主体概念を説明するときに、しばしば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』において、幼くして亡くなったゾシマ長老の兄の言葉をゾシマ長老の思い出の手記としてアリョーシャが書き取った「私は他の誰よりも責任があるのです」という台詞を引用する。 Marie –Anne Lescourretは、この台詞の引用を中心に、レヴィナスにおける「罪責感」と「責任」の関係を明確にしつつ「善」について考察し、最終的に「責任」を負う主体のみが自由である、という点についてまでを扱った。彼女は、罪責感は、個人のあがないを意味するにとどまるのではなく、社会的正義や連帯性を意味する、ということに注目する。レヴィナスの責任概念を論じる際に、自らのエゴイズムに決して帰着することのない主体の善性と自由の概念が両立可能であることがどのようにして示されるか、ということは重要な問題であるが、さまざまな歴史的文脈を強く意識しながらの論は彼女の特徴であり、背景から説得力を持たせるという意味では効果的であると思う。

午後の第一分科会では、フェミニズムの部屋の4つの発表のうち3つを聞いた。私が聞いた3つの発表は全て英語のものであり、聴衆も英語圏の人が多かったように思う。司会はテキサス大学のJules Simon。専門の幅が広いが特に近現代ドイツユダヤ系の思想に強く、倫理と政治に関する思想に関心を持っている。

 

Daniel Kline (USA) « Paternity, Maternity, Subjectivation : Natality in Totality and Infinity and Otherwise than Being » 

『全体性と無限』は他性を、『存在の彼方へ』は主体性を扱った著作であるということはよく知られている。この発表では、『全体性と無限』の他性を父性を通して、『存在の彼方へ』の主体性を母性を通して捉え両者の関連性を見るものであった。『全体性と無限』における「父」と「子」の関係が『存在の彼方へ』における「母性」の論へと変化していくことを連続的に捉えようとする。特に「女性」「父」「子」「母性」の形作る物語の中で「母性」が「子」を「成人」にするという流れのもとに「責任」概念を捉えレヴィナスの思想の一貫性を考える。
 
Mitchell Verter (USA) « Domestic Responsabilitys »
「ユダヤ教と女性的なもの」における「家」についての論に関して、「女性的なもの」についてのステレオタイプ的な見方から離れるために「家」に特化して論じた発表。まずユダヤ教における「家」の役割から確認している。すなわち、「飢えた者を迎え入れる場所」「教育の場所」であることに加え、政治的にユダヤ人が「国家」としての「家」を持たなかったことにも言及する。その上で、ハイデガーの「住まい」の論との比較を行い、「家」についての議論をレヴィナスの倫理および政治思想と切り離せないものとみなす。さらに現代における社会的運動にまで(エコロジーなど)話が展開していくのであるが、この部分はよく分からなかった。
 

Fleurdeliz R. Altez (Philippines) « Towards the fullness of the Eros : Emmanuel Levinas on Ethical Paternity and Maternity » 

これも最初の発表と同じく、『全体性と無限』第4部のエロスの現象学と『存在の彼方へ』母性の議論を結びつけたもの。ただし、最初の発表が「子」と「教え」などどちらかと言えば他者との倫理的関係と父―子、母―子の関係結びつきを考えようとしていたのに対して、こちらの発表は、接触や感受性から子が生じる過程を母性の議論に見いだそうとするものであった。

 特に、男性性あるいは「征服的なもの」と女性性あるいは「征服しえないもの」との出会いから、生殖をエロス的愛の充実であると同時に創造の行為であるとし、生殖(繁殖性)の議論に倫理的価値を認めるところに特色を出そうとしていた。
 
 レヴィナスにおいてフェミニズムに関するものといえば、『困難な自由』には「ユダヤ教と女性的なもの」がおさめられているが、発表のうちの2つは『全体性と無限』における女性概念と『存在の彼方へ』における母性概念とのつながりを強く意識したものであった。レヴィナスにおける「女性的なもの」にまつわる問題系は興味深いが、扱いの最も難しいものの一つに入ると思う。その難しさの理由には、単に二つの主要著作間で女性に関する概念の扱いが大幅に変更されているというにとどまらない。まず、『困難な自由』における「ユダヤ教と女性的なもの」が示すようにレヴィナス自身が旧約聖書的な男女観から話を持ってくるため、どうしても彼自身フェミニズム系の批判から逃れることのできないことは、レヴィナスにそれほど詳しくなくとも本を読めばすぐに出てくる疑問である。しかし、それにもかかわらず批判で終わってはレヴィナスの意図を何も理解していないことになる。つまり、レヴィナスに対する表面的な批判を認めた上で、レヴィナスの他の問題系と共通する観点からレヴィナスの述べることを論じ直さなければならない。ある部分に限ってレヴィナスの述べることの繰り返しを行ったり、あるいはレヴィナスが全く論じていない部分から話を持ってくる、ということではレヴィナスの論に意義を見いだそうとしても徒労に終わる、ということは、他のどの問題にも通じるが、特にこの問題系においては顕著に現れる難しさのひとつであろう。というのも、この問題系は、レヴィナスが扱う他の問題系と比べて独立している感が否めないからである。そこにさまざまな関連を見いだすことが課題となる。発表はいずれもこうした課題の困難さを聴衆に強く意識させるものに終わった、というのが個人的な雑感である。
 
 
7月7日
午前の最初のセッションは、政治の部屋から言語の部屋へと移動して4つの発表を聞いた。
 まずは政治の部分。二者関係が複数の者どうしの関係になるときに倫理的関係の問題から政治的関係の問題が、あるいは善性から正義の問題が生じる、というだけで終わるのは凡庸なレヴィナス理解であろう。この通俗的な理解を乗り越え、特に第三者の問題と複数性の問題を混同しないためにどのような切り口を見つけるか、また、宗教や歴史の問題をどのように絡めていくか、ということが、レヴィナスにおける政治の問題を扱う際に重視されるべきこととなる。
 

Louis Blond (South Africa) : « Difficult History : Time, Judgement and Rosh HaShana » 

Rosh HaShana とは、ユダヤ暦の新年であり、直訳は「年の頭」である。この日は複数の意味を持ち、その中に「裁きの日」(いわゆる「ラッパの日」)というのがある。発表は、『困難な自由』のローゼンツヴァイク読解およびレヴィナスにおけるユダヤ教由来の「裁き」概念の解釈を通して、人間がその行為者であるような歴史と、歴史の裁きのパラドクサルな関係を浮き彫りにしようとするものであった。パラドックスは、ユダヤ教の考えによれば「裁き」によって「終末」がもたらされるのであるが、「終末」が歴史における行為者に対してどのようなしかたでもたらされるのか、という問いに対する答えをレヴィナスが示していないことにある。したがって、発表はレヴィナスがユダヤ教における「歴史の裁き」を「終末」とは異なるしかたで解釈しようとしていることに注目する。すなわち、「裁き」によってもたらされる「終末」が「始まり」であり「創造」である、ということもまたラビによる聖書の注釈によって言われていることに注目し、「創造」としての「歴史の裁き」をレヴィナスの思想に見る。そして、絶えざる「裁き」の可能性と新たな「始まり」こそが時間であるとレヴィナスが述べることから、「裁き」を「終末」としてとらえることによって生じてしまうパラドックスを解消しようとする。

 
Richard A. Cohen (USA) :  « The Few and the Many : Levinas on Politics »
 
発表者によるレヴィナス関係の単著は2冊出ている。この発表でコーヘンは、レヴィナスにおいて、政治における少数者と多数者の古典的な問題が知や力にではなく道徳に基づくことに注目する。政治の問題が知や力に存する場合には、知や力を持つ少数者が多数者に対してさまざまな決まりごとを設け政治を行う。しかし、レヴィナスに従って、道徳から政治を考えるのであれば、少数者対多数者ではなく、一対一の(「対面」の)関係から出発することになる。そこに第三者が登場することで政治の問題が生じる、というのは、レヴィナス研究において必ず言及されることであり、その解釈にはさまざまな問題があるが、発表は、「神」である「第三者」を扱い、「正義の名において自分自身を捧げること(犠牲にすること)」として社会性を理解することを目指したものであった。しかし、このような社会性がいかにして実現されうるか、ということへの道筋が、発表の短い時間では細かく聞くことのできなかったのは残念であった。 
 
ここからは言語の部屋に移動する。以下の二本の発表は異なる方向であるがどちらも興味深く聞くことができた。
 

Branko Klun, « Creation—the Biblical Origines of Difference and Alterity » 

「無からの創造」としての言語の意味を追う発表。レヴィナスは「一神教と言語」(1959年)において、経済的協力によって結びつく「等質な人類」が先にあるのではなく、一神教における、それに対して返答せざるを得ない言葉によって結びつく力が人間の連帯を創造したということを主張する。発表は、このことをギリシア的ロゴスに基づいた普遍的「等質性」に先立つユダヤ教的「根源的差異」と捉え、聖書に基づく解釈から、「差異」の起源を問うものであった。「ギリシア」「ユダヤ」の分け方はかなりデリダを意識してはいるが、それらを単に二項対立として捉えるのではなく、「差異」が自由を創造するというしかたでレヴィナスにおいてギリシア的ロゴスとユダヤ教が和解に至るという解釈を行う。

 
Elisabeth Goldwyn « Difficile liberté et parole »
 
発表者はユダヤ思想およびタルムードの専門家である。言語を発語から考えることの意味について、レヴィナスの諸著作を年代順に追い言語観の発展を検討する発表。レヴィナスにおける言語についての思考の出所への言及から『全体性と無限』における「顔が発語する」ことの意味、『存在の彼方へ』における言語以前の言語としての「語ること」まで網羅的に扱っておりながらまとまりがあり、整理として役立つ印象を持った。
 
この日の午後からは全体が統一されたプログラムとなり、講演という形をとることになるため、発表時間が長くなる。テアトル・ガロンヌへ移動する。
 
まず、レヴィナスとヘーゲルから始まった。
 

Ali Simohn : « Conférence Raïssa et Emmanuel Levinas : Levinas, Hegel, les juifs »

発表者にはヘーゲル批判に関する著作があり、今回の発表は『困難な自由』におさめられている「ヘーゲルとユダヤ人」(1971)を扱うものであった。レヴィナスのこの論文は、リヨン第三大学で教鞭をとっていたブルジョワ教授の著作であり、フランクフルト時代のヘーゲルの思想を扱ったHegel à Francfort. Judaïsme, christianisme, hégélianismeに向けて書かれたものであり、レヴィナスのヘーゲルにおける「体系」に対する批判を端的に表現している。しかしレヴィナスの反応に対して答えることのない同書第二版序文は、レヴィナスとブルジョワのヘーゲル解釈の方向性の違いを明らかに示している。ブルジョワがヘーゲルと「ユダヤ性」について論じているのに対して、レヴィナスはヘーゲルと「ユダヤ人」について論じている。というのも、レヴィナスにおいて、ユダヤ教について語ることと、ユダヤ人に対して語りかけることとは 切り離されることができないからである。レヴィナスがヘーゲル批判の文脈に属していることは明白ではあるが、彼は、ヘーゲルを反ユダヤ主義者ととらえることを馬鹿げたことであると考えており、ある意味において「体系」の入り口にあるフランクフルト期のヘーゲルを肯定している。発表は、ユダヤ教を「受動性」「純粋な存在」として捉えるレヴィナスの論に焦点をあて、こうしたヘーゲルへの肯定 Ouiを、「否 Non」と言うことの可能性として捉えるものであった。 

 
この後のJean-François Reyの発表も大変興味深かった。ヘーゲルに対するレヴィナスの関係を、単に「全体性」に抗する、あるいは「体系」に抗する、とひとことで言い切れるような全面的な批判と捉えるべきではないこと、そうであるとすれば、単なる両者の比較ではない内容分析が必要とされることは、その通りと思う。逆に、レヴィナスがヘーゲルから得たものが何であるのかを明らかにしないことには、少なくとも論じる側がその度にきちんと抑えているのでなければ、「全体性の外部」や「体系の外部」といった言葉が空疎に響くことは避けられないであろう。
 

 夕方にはジャンケレヴィッチの映画を見た。Question d’oreille Vladimir Jankélévitch, un philosophe de la musique –Documentaire. (1999, ’52, réalisation : Anne Imbert )この映画が音楽内容ともに大変面白く、今回見る機会を持てたことを良かったと思う。

 
夜の「レヴィナスと神学」の部に移りたい。場所はテアトル・ガロンヌから今回初めてとなるカトリック学院へと移動になる。
 ここでは主にレヴィナスのキリスト教との関係についての講演が行われた。『困難な自由』を丁寧に読むならば、レヴィナスの述べる「神」というものが、哲学的思考に先立って哲学的思考を成り立たせるようなものであり、哲学と切り離せない概念であることは明らかである。『困難な自由』においては、ユダヤ教だけではなくキリスト教にも多く触れられているため、この日に限らず今回はキリスト教に関する発表および講演も多かった。
 

Francesco Paolo Ciglia : « Entre théophanie éthique et théophanie historique. Emmanuel Levinas interprète du christianisme » 

 20世紀におけるユダヤ教のあり方という歴史的背景に触れつつ、レヴィナスの著作の新約聖書への言及に注目しながら、レヴィナスの思想の聖書解釈の側面を提示する。特に、レヴィナスにおける「改宗することなく(ユダヤ教とキリスト教の)友愛関係を築く」という態度と、ユダヤ教への傾向のゆえにキリスト教へ向ける視線を一枚岩的に捉えられないこととの相容れなさが議論の中心であった。「身代わり」「責任」といったレヴィナスの鍵概念を、キリスト教解釈との位置づけで捉える試みは興味深い。
 

Richard Sugarman : « In the Absence of a Theodicy : Preliminary Reflections on Levinas and the Holocaust » 

 「神よりもトーラーを愛すること」(1955)において、レヴィナスは「神の不在」を、人間が神秘主義を脱し、人間が自らの苦しみの責任を担うことを主張する。「苦しみは他の誰によっても説明されえない」ということは、神が隠れてあることを意味する。しかし、神は言葉によって現前することで、二義的であり、人格神として人間が接近しうるものとなる。発表は、こうした神の不在と現前の二義性についてのレヴィナスの議論を倫理と宗教の関係から捉え、罪なきものの苦しみ、正当化されえない苦しみであるホロコーストの意味を再考するものであった。
 
 
7月8日 午前の最初のテーマは「預言」。レヴィナスにおける、言語や発語に関する議論の中でも、「預言」は特別な意味を持つ。レヴィナスは、『困難な自由』において、「話者の中で絶対的に開始され、そして絶対的に文理された別の話者へと向かう言説の言葉」を「いかなる抹香臭さもなしに」「預言的な言葉」であると述べている。このことは、レヴィナスが倫理を「見神」であるといいながら、神秘主義を排除することと結びついて、彼の述べる「宗教」「神」といった事柄の複雑さと特殊さを浮き彫りにする。
 

Adam Zachary Newton : « From a Conversation Overheard in the Underground : Anecdote, Story, and Aggada in Difficult Freedom » 

一般の発表の部でもひとつのセッションがあてられていた「ある犬の名前、あるいは自然権」(1975)から着想を得たもの。「犬」は、言葉を持たないとみなされているもの、「倫理もロゴスも持たないもの」である。しかし、そうした、ロゴスの外部にある者が名づけられ、「顔」を持つことは可能である。こうしたことを考慮するならば、倫理的関係を築くためには、ロゴスを前提とする自由は充分ではない。受け取った「声」を構成する責任ということを考えずに関係が築かれることはできないからである。レヴィナスはむしろこの責任に人間性を求める点において、「自由」を人間性の前提とする哲学とは異なる(発表ではトクヴィルとの対比が何度かなされていた)。
 『困難な自由』の中で、この「ある犬の名前、あるいは自然権」と末尾の「署名」の二つのテクストは、特殊な位置を占めている。というのも、この二つには、単なるビオグラフィの枠にははまらない、レヴィナス自身のビオグラフィが綴られているからである。発表は、以上のことを論じ、テクストによって読者が呼びかけられること、そして「聞く」ことによって相手に差し向けられることが関係性を形成するというレヴィナスの論がローゼンツヴァイクに由来していることまでを指摘した。
 
 

Edvard Kovac : « La responsabilité prophétique de Levinas et la littérature russe »

トルストイ、ドストエフスキー、ワシリー・グロスマンなどのロシア文学に対するレヴィナスの言及に触れながらレヴィナスの思想における文学の重要性を分析している。単一の言語ではなくさまざまな言語の群れであるスラブ語の持つ意味を分析しながら、「困難な自由」という概念そのものについて問いをたてる。すなわち、スラブ語というものが、単にコミュニケーションの手段としての言語としてではなく、人と人の間の関係を創設するものそれ自体としての言語の意味を有するものであることに注目し、このことと、自我中心性を脱し、他者との出会いの中で生じるような自由がいかにして可能なるのかをレヴィナスの論からたどって行くこととを重ね合わせる。

 
 
 
7月9日。最終日。レヴィナスとフランス哲学、という題で始まる。発表は特にベルクソン研究で知られるWorms Hoppenot。ヴォルムスの講演は非常に構造がしっかりしていてまとまっていた。後者について少し述べる。
 

Eric Hoppenot : « Traces d’une lecture (Maurice Blanchot lecteur de Difficile liberté ) » 

メシアニズムの問題についての、レヴィナスとブランショの近さと差異について論じた講演。『困難な自由』におけるいくつかのテクストと『災厄のエクリチュール』を比較したもの。両者の差異は、レヴィナスがメシア的主体について、すなわち、主体の外部からのものの到来による主体性について思考するのに対して、ブランショは、「メシア」を否定しながらメシア的なものを残すところにある。
レヴィナスにおいてメシアニズムは歴史の終焉ではない。というのは、メシアは既に到来しているからであり、救済はいかなる瞬間にも可能であるということの希望だからである。そうしたメシアニズムについての考え方をブランショも共有しているが、しかし、メシアニズムに「私」という主体の生じる契機を不可欠とするレヴィナスに対して、ブランショは悪の存在をメシア的契機として提示する。
こうした対比を通して、発表は、「生きられた時間」の秩序に対する「メシアニズム」の時間の次元を提示するあり方を考えるものとなった。  
 
全体の感想
 
6日間、ずっとレヴィナスに関する発表を聞き、各国の人と知り合えた経験は貴重であり、コロックの間、大変勉強になった。特に、各国の研究状況については興味深かった。発表の内容では、新しい視点、新しい研究でかつ有益なものを産み出すのはやはり難しいという印象が少なからずあったが、レヴィナスの思想の中でも多くのテーマがカバーされ、発表の場がきちんと区分けされていた。そのため、レヴィナスの思想の全体像を、他の人がどのようにレヴィナスの全体像を把握しているのか、ということに触れ、自分でも研究を見直す機会となった。公開されているレヴィナスのテクストの内容の分析については、テーマ別にほぼ網羅されている現状で、さらにレヴィナスの述べることの繰り返しではなく、そこから何かを言えるとしたら、どのように研究を進めて行けばよいのか、という問いがこのコロックを覆っていたような気がする。しかし、レヴィナス研究と、哲学的問いの中でのレヴィナスの位置づけとはまた異なっていて、レヴィナスの思想の内容は彼自身のテクストを追うだけでは充分に明らかにされえないし、もしレヴィナスに忠実であるならば、彼自身が残したテクストには組み尽くされない部分を扱わなければならないと思う。そして、テクストから思考しうることの限界についてどのように考えるか、ということもまた問いうることであろう。常々考えなければならないことではあるが、こういった機会があると、内的な問いが形となることを実感した。
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